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2005年02月24日

アーカイブス資料第7弾

先のアーカイブス資料第5弾でご紹介した岡本氏の「プリンストン・コングレス報告」のフォローアップとして、アイセック・ジャパン25周年誌に寄稿されている、国際文化会館の加藤幹夫氏の「プリンストンでの想い出」をご紹介します。加藤氏は、アイセック・ジャパン設立時に大変お世話になった方のお一人です。

「プリンストンでの想い出」
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加藤幹夫(国際文化会館常務理事)

AIESEC-JAPANの歴史は、1962年のトーマス氏の来日から始まったことになっているが、実はAIES-EC本部から日本への最初の働きかけは、その二年前にも遡ることができる。このいわばAIESEC-JAPAN前史についてはほとんど知られていないと思われるので、25周年の機会に紹介しておきたい。

AIESECが独仏など西欧7ヶ国の学生によって組織されたのは1948年のことであるが、1950年代末までには、1万人を越す研修生交流の実績をもつ組織に成長していた。しかし、アジア地域との交流はまだみられず、国際本部も存在していなかった。国際本部がジュネーブに設立されたのは1960年であり、そのころにAIESEC活動をアジアにも拡大しようという機運が生じ、極東、オーストラリア委員会が設けられた。この委員会の意を受けて、1960年7月、二人の米国人青年のJ・ハインツ君とC・ページ君が来日した。両君は、ファースト・ナショナル・シティー銀行のT.P.ディビス氏と在米日本大使館の島内敏郎参事官から松本重治国際文化会館理事長あての紹介状をもってきた。そして当時礼同会館で仕事をするようになって間もなかった私は、この2人の世話役を命じられたのである。私はまず、両君を早稲田に連れて行き、中島正信先生(当時商学部長)に引き合わせた。中島先生は、両君の話を熱心に聞いてくだされ、数日後に早慶の学生を十人位集めて大隈会館で昼食会を催して下さった。これがAIESECと日本との最初の出会いである。しかし、この出会いが、日本委員会に発展することはなかった。その後トーマス氏がやってきて日本委員会が設立されるにいたった経緯:については、よく知られている通りである。日本委員会は、1963年、プリンストン大学で開かれた国際総会で準会員の資格でAIESEC加盟を認められたが、この総会には私も日本代表団に加えていただいて参加した。金子正人、岡本良毅、安井隆豊、大駒勲らの諸君が、当時ニューヨークのジャパンソサエティーに勤務していた私を訪ねてきて、プリンストン総会への参加を誘ってくれたのである。彼らが用意してきた総会提出用の英文書類にタイプ・ミスなどが目立ち過ぎることを指摘すると、岡本君は何ら躊躇するところなく、総会まであと二日ありますから打ち直しましょうと言って、夜を徹して書類を作り直した。総会における岡本君のスピーチは実に堂々たるものであった。当時のAIESECには閉鎖的な空気がみられ、新規加盟にはいろいろな条件がつけられたが、こうした中、日本委員会が準会員(Probational
Membership)として認められたのは、岡本君の交渉力に負うところが大きかった。総会終了後ニューヨークに戻った日本代表団の諸君を私の小さなアパートに招き、ささやかな祝杯をあげた。岡本君たちは、いま日本ではやっている歌を紹介しましょうと言って、「今日は赤ちゃん」と「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。あれから二十数年になる。岡本君の早世が階しまれる。

Posted by Kinashi at 2005年02月24日 13:48