『AIESECカナダ研修レポート(思い出)』
布施 孝(慶應)
26年もたってレポートを書くのはもう記憶が薄れているし、どこまでが本当のことやらあやふやな部分がありますが、思い出を書き綴るつもりで纏めてみました。勿論、正式なレポートは、研修終了時に研修先に提出してあります。
1979年6月末、成田からDC8に乗りJFK空港乗り換えでトロント向かった。空港でAIESECの学生に拾ってもらい、50キロ南のHamilton市にあるMcMaster大学の学生寮に寄宿し、研修生活が始まるのだった。夏休み中であることと日中は会社にいたので学生はほとんど見かけず、一面広い地方都市の中で、日本人は私と、数日遅れてきた原子炉研究者2名と、街の郵便局勤務のおじさんだけだった。
夜は9時までは陽が落ちないので時間をもて余してしまい、今思い出すと夕食を大学病院のカフェテリアで摂ったことだけは覚えているが、朝食はどうしたのか思い出せない。
初出社日を迎えた。街の高層ビルに研修先はあった。Steel Company of Canada (彼等は
ステルコと自称する)の本社であった。実はAIESEC側の確認ミスで前日が出社日であったことがわかりスタートに躓いてしまった。ともかく受入先窓口の方々と挨拶を交わし、これより一人研修の道に入った。
車で20分のところにステルコ工場があった。全従業員2万人の会社であり、粗鋼生産高は世界で17位の鉄鋼会社である。私の実家が川崎製鉄千葉工場の近くにあったことから溶鉱炉からあがる煙に同じ公害問題がここでもおきているに違いないと感じたが、研修期間を通して環境問題を聞くようなことは無かった。
先ずは労務部長、副工場長に挨拶、そして勤労部の労働協約関係担当が私を待っていた。今では名前も思い出せないが(仮にブルースにさせてもらう)彼は20台後半、おしゃれで物静かなタイプである。いきなり労働協約ハンドブックを渡され、内容の見直しをしているんだと言う。私が初めて見たことを伝えると協約条項の構成を説明してくれた後は、私は辞書を片手に読解に取り掛かった。ブルースのところを拠点とし人事採用企画課、福利厚生課を回るのが私の研修コースであった。
会社勤めをしてきた今,1ヶ月で何ができるかを考えると、放りっぱなしにされずよく面倒みてくれたなと感じる。
ブルースは私が面白味の無い労使協約に取り組むことの大変さをわかってくれて2日目は工場見学させてくれた。また3日目は仲裁関係の手続きがあるからとオタワまで連れて行ってくれた。都市の密集度ではトロントにかなわない。研修期間にホワイトカラーの人々が忙しく通路を走る姿や4時半以降残業する姿も見ることなくゆったりとしていた。
4時半のベルがなると、ジム(勤労部の年配者)が車で寄宿先まで送ってくれるので非常に助かる。彼は陽が長いので自宅に帰るとガーデニングを楽しむという。
私は自分がどうやってコインランドリーで洗濯を覚えたのか忘れたが帰ると洗濯、モダンなカフェテリアとやさしいおばさん達に挨拶し一人夕食をとること、部屋か図書館でその日のレポート作成がアフター5の日課であった。
出発前に東京銀行でトラベラーズチェックを用意したが、寄宿舎に近い信用金庫に換金にいったら、東京銀行が知られていないのか手続きに30分はかかった。まだ日本は知られていない。当時彼等に一番知られていたのがMade-in-Japanバイクであり、工場にもバイク通勤が多く8割は日本製だった。
朝はリスをしばしば見かけながら緑豊かなキャンパスの近くでバスに乗り1回乗り換えで片道40分のラッシュアワーのない通勤であり仕事道具の入った緑の唐草模様のついた風呂敷をかかえ出社していた。
土曜日曜はどうすごしたか? AIESECに色々なところに連れていってもらい、これから書き上げて行くが、オペラ鑑賞、トロント島とナイアガラ観光、ブルージェイズ対ターガース観戦、マスコカのキャンプ、最後がバンクーバー、とにかく一人でいる傾向のある私にとってハプニングと出会いが続いた。
また研修に戻る。2週目は、人事企画採用部門であり美人女性マネージャ率いるグループでの勉強であった。名前は忘れたのでキャシーさんにさせてもらうが、数年前にご主人の仕事の関係(小松―キャタピラ)で東京に行ったそうだ。キャシーさんのグループに男性が3名いたが、彼等は新入社員か、中途採用をとるかを検討していた。それまでは大方が中途採用であったようだ。そしてその中途採用面談に立ち会った。志願者は彼の履歴書や資格卒業証書等を見せながら自身をアピールする。採用側と志願側とがほぼ対等に話されていたのは中途採用の特徴なのだろう。
第2週目の半ばに、アイセックのジュディさん(仮称)がOpera鑑賞に連れていってくれた。トロント辺りはその昔モハーク族インディアンの居住地であったらしく、今では文化村として生まれ変わっているが、そのホールはギリシャの演劇場のような半円形に客席が配置されていて洒落た明るい雰囲気があった。「セビリアの理髪師」が上演されるのだが内容は知らないので早いうちから眠気が出てしまった。ジュディさんは途中、私に帰ろうかと聞くが、見続けたいと伝え、実際終わりまでいた。華やかな舞台は楽しかった。文化の高い静かな夏の夜であった。また週末はメジャーリーグ観戦に、ボブと彼の父親が誘ってくれた。まだToronto Bluejaysが楽天のように弱いころで熱狂的ファンが見られず、負けてくると途中で引き上げるような観戦者が多かった頃である。後で知ったのだがカナダ国技はアイスホッケーで夏場もホッケーを楽しむ人々を見た。
研修も雰囲気に慣れてきた第3週目になり、副工場長のWilliamsさんが職場の部下を連れてレストランに連れていってくれた。総勢15人ぐらいだった。昼食でもビールを飲むのにもどって仕事ができるのかなと思ったが,仲間も薦めてくれるのでみんなと同じビールを飲み新鮮な野菜サラダやエビのサンドイッチを味わった。職場に帰ってきて何か雰囲気が違うのを言葉がわからないながらも感じ取った。どうも私に関係してることは検討ついたが行きと戻りのこの大きなギャップがなぜかは理解できなかった。職場の仲間は誰も話しかけてくれないので、一番親しいテリー・ウォルシュさんに尋ねた。
テリーはついに言ってくれた。「酒気帯び状態で工場内(職場)に入ることは許されない。君にビールを薦めたラリーは3日間の出社禁止処分を受けたんだ。」と。私は自分の不注意で、ラリーに申し訳ないことをしてしまったと悔やむと同時にWilliamsさんに自身の不注意の反省とラリーへの処分撤回願いを書ける限りの英単語を使って手紙にし、テリーさんにWilliamsさんに渡して欲しいとお願いした。しかし、この私の手紙に対するWilliamsさんからの反応はなかった。私はこの時から非常に落ち込んでしまった。
数日後、私の研修場が労務課に移った。ケビンさんが私のところへ来てちょっと歩かないかということで工場を一回りする間に、彼自身について色々語ってくれた。彼は、ステルコに入社する前は、カソリックの牧師であった。結婚が理由で牧師を止めねばならなかったが労務課での自分の仕事は社員の葬儀があればそこに参列し家族を励ますこともできるので牧師として仕えた時と変わりはないんだと話す。笑顔で話す彼をを見ているうちに不思議だが私の気持ちも軽くなっていった。彼のもとでの研修で思い出深いのは、退職予定者との事務手続きに関する確認面談であった。
ジョンは50歳そこそこで定年に達していないが早期退職しこれから悠々自適の人生を送るんだと元気の良い男で、ステルコに入社した時は今役員になっている誰某と一緒に働いて、その時の思い出話を楽しそうにケビンさんと話す。現場の男たちと合って私の気持ちは和らいでいった。
またトミーさんの場合は、設計技師であったが、脳溢血で倒れ、半身不随になってから20年間軽い事務職として働き続けた。定年を迎え年金の手続きで奥さんに付き添われてケビンさんのところに来た。奥さんはイングリッドバーグマンぐらいしか名前は知らないが、彼女に似たとっても美しい方だった。挨拶を交わすやいなやケビンさんから私にこの二人にCoffeeを入れてくれないかと頼まれ、喜んで給仕した。
まずトミーさんは、国民年金と、企業年金、個人年金の3種類の年金を受けられる。この中で個人年金の選択についての確認点は、彼の生存中の受給額を最大化するか、彼の生存中をそこそこにして残された家族(妻)がその天寿を全うするまで受給するか、または中間を選択するのかを確認する点にあった。
ケビンさんは相手が解かるまでゆっくりと具体的に数字を使いながら説明していた。トミーさんは口を開き、自分は今の暮らしで満足であり、自分の死後も奥さんが困らないような選択をしたいと言った。奥さんの長年の支えや、それに答えるトミーさんの姿、またケビンさんの熱意こもる説明にそれまで私が知らない堅実に生きる人々を見た。こうしたことは本や学校では教えられないリアルな体験のすごいところである。奥さんの喜びは、口にはしないが目の奥に表れていたし、部屋を出る時の握手の力強さで伝わってきた。二人が帰った後、ケビンさんにこの年金でどのような生活ができるのかを聞くと、普通夢に描くのは、晩年は暖かいフロリダで過ごすのが一般の人々の場合だが、トミー夫妻はそこまでは難しいだろうが、そう悪くはないよと答えてくれ、私は嬉しかった。
土曜日はアイセック学生がトロント島とナイヤガラの滝観光へ連れていってくれた。トロント、ハミルトン地域で研修を受けている海外学生は4人いたと思う。私はユーゴからきたコマネチのような女子大生マリアと話をして国情,文化,慣習が異なっても、結構感じ方が共通していて不思議であった。オンタリオ湖に浮かぶトロント島も季節の花々が咲き乱れいかにもカナダらしい。ナイヤガラも雄大であった。
トロント地区のアイセックは、誰がリーダーかわからないで,だらだら気味であったが不平不満がでない変な集合体であった。たとえばトロント島では昼食もとらず草の上にぐたっと横たわり休むだけで、私を空港でピックアップしてくれたロバータとポールのカップルだけがバスケットを開きサンドウィッチを食べるといった不調和な場面があった。みんなはポンコツ中古車に乗り、自活で勉強してるらしい。そんな彼等彼女達と次の週末にトロントの北100キロぐらいところにマスコカと呼ばれる湖沼地域があり、そこにキャンプに出かけることになった。キャンプ場について薪をすぐ配られたので恐らく金曜日の夕方出発したのだろう。陽が沈んだ森は東山魁夷の描いたような世界でやはり日本でみてる森とは違った。みんなは燃える薪の周りに集まり話をしていた。夏場とはいえ、内陸のカナダはとても冷え込みそして、テントで寝るのは初めてでもあり、大地の冷たさと硬さに耐えられずとうとう眠ることができなかった。翌朝は友達になったスコットと湖にゆきカヌーを漕いだ。時々ビーバーを見かける以外は鳥のさえずりしかなくまさに大自然の中にいた。
仲間達はアメリカンフットボールをやろうを誘ってくれたが、ルールも知らないので加わらず一人で辺りを散策した。キャンピングカーでくる家族連れも多く見受けられた。マスコカは蝋燭の生産地で有名らしく、私も蝋にカエデの葉が含まれた蝋燭を思い出に買った。
第4週目の研修の最初は、その年ステルコに入社した新入社員(40名程)と新エリー湖工場見学であった。どこでも新入社員は元気がいい。バスの中は修学旅行のようだ。全員男だけ、威勢のいい鉄屋さん達だ。エリー湖工場はまだ完成したばかりで稼動はしていなかった。湖に面した牧場の中に環境と調和した最新鋭の工場である。赤茶けた建物でなく、煙も吐かない工場は長いベルトコンベアで岸辺から原材料を運べるようになっておりトラックは必要としない。同行した人事部の方に話をきくと、オンタリオ工場の従業員のいくらかはエリー湖新工場に転勤することになっているとのことで、若者なら転勤を希望するに違いないと思った。なにしろ牧場と製鉄工場という組み合わせがとても新鮮であった。またそこには風と共に去りぬのような立派なゲストハウスが立てられており工場は自然の中に溶け込んでいた。
最後の週は,特に新しい職場への移動はなくこれまで学んだことをレポートに整理していたと思う。その週の半ばに、Williamsさんの一声で、管理部門の男達は、定時後にアメリカンフットボールをすることになった。私はWilliamsさんは、ケビンさんのところでの研修とか気遣いしてくれているのを感じた。Williamsさんはアメリカの大学をでて何年も経たずに若くして副工場長であったのでもし今でもいれば役員になっているかもしれない。
日本の鉄鋼会社ではお抱えのラグビー選手をもっているが、こちらはレクリエーションで楽しんでいる。フットボールが終わるとWilliamsさんの家にみんなでいった。小高い丘の上にあり、ハミルトン市外とオンタリオ湖を見渡す眺望と25mプール付の部屋数がわからないほど多い豪邸であった。スキーが趣味のようで20セット程持ってるようだ。何名かはもう慣れていてプールで泳ぐ準備もしてきていた。一汗かいた後は、Williamsさんのお父さんが焼き上げてくれるピーチパイを食べる。Williamsさんは独身のようだ。彼は会社にいる時よりは口が軽くなるが、やはり物静かなタイプである。反対にお父さんは社交的である。だから職場の仲間もこうやって来るのだろう。まもなくステルコを去る私は、心のしこりを残したくなく精一杯の社交家になった。それはピーチパイを沢山食べることであった。また飲み物に、今度はジュースを選んだら、みんなが笑った。Williams父子、職場の仲間との楽しいひと時であった。
最終日に人事部長にそれまで纏めたレポートを提出した。この鉄の町で過ごした1ヶ月間、悩み、感動、笑いがあった私の研修はこれで完了である。(追記、私は一週間単位で給料をもらい旅費,生活費にあてがっていた。)翌朝空港まで到着時と同じくロバータとポールのカップルが見送ってくれた。26年前の姿はまだ覚えている。エアカナダのジェット機からオンタリオ湖、農場、森林、山脈をぼんやり見下ろしていた。さてこれから舞台は,西海岸に移っていく。
ここで、なぜこの研修に参加したのかについてふれておきたい。大学の同窓である水田氏が、彼の所属するアイセックで、日加通商協定が結ばれて50周年目のこの年に日加アイセックが交換研修生を受入れ、互いの国をより深く理解して貰うことを主旨として幅広く募集しているとのことであった。英語をすこし勉強していたことと、一度は海外にでてみたいとの思いから、早速応募したところ、筆記試験、面談ともパスしてしまった。大学で労働経済を勉強していたことも、ステルコのニーズにあったのかもしれない。ただあまりにもカナダについて無知であったので、政治学科のカナダに関する講義を聴講したものの関心がわいてこなかった。
ともかく、バンクーバーに着いた。土日を移動につかい自由時間であり、YMCAに宿をとり市内散策にでてみた。バンクーバーは暑かった。そして人も多く、とくに日系人をよく見かけた。(バンクーバーはサンフランシスコに次ぐ日系移民先である。)
散策するなか、方向がわからなくなっていたので通りすがりの日系人に道を教えてもらったところ、先方からもめずらしかったのかこちらに来た目的を尋ねられ答えているうちに打ち解けて食事でもしましょうということになった。中華レストランがあった。久しぶりのアジア食であった。その方は、戦争中は三菱重工系の会社で、ゼロ戦を製作していたエンジニアである。詳しくは、語らなかったが、日本がいやになって1960年代始めの第一期カナダ移民として渡って来たのだという。カラテキッドにでてきたオジイサンのように精神的には日本的なものを持ちつづけ,今はカナダの会社に勤務して悠々自適の暮らしを送っている。ただやはり望郷の思いは断ちがたいということが伝わってきた。
翌日は、今回の研修生の集合場所であるUBC(ブリティッシュコロンビア大学)に行った。大きな橋をわたるとゴルフ場があり、その先がUBCであり、McMaster大学とはその広さは比較にならない。学生寮も超高層建築でホテルといっても良い。実際、長期休暇期間は一般市民が利用できるようになっており、私が行った時は、身体障害者のリハビリテーションにその施設が利用されていた。
ここで初めてカナダ研修に参加された方々に会ったわけで、全員で十数名だったかと思う。互いの研修の感想を語り合う中、受入れ先が、細やかな対応をしてくれた例は、ほとんどなかったようだ。またそれは実際工数がかかるわけで、民間企業でそこまでの余裕は期待できないのが当たり前だ。
またほとんど4年生であり、就職活動も話題になっていた。アイセック受入れ側は2日間のプログラムを用意されていたと思うが、最初の日が座学、二日目にバンクーバー証券取引所訪問があった。私は証券に全く知識がなかったので説明を受けても質問もできなかった。その次は銅山跡地観光で1860年代がピークで既に廃坑になっている山の中に入った。その広大な面積からカナダは天然資源の宝庫で農林,水産,鉱業の第一次産業と観光が主要産業となっているが、自然対比として日本が加工組立産業中心に行かざるをえないのが良く解かった。そしてUBC内のゲストハウスでの歓迎パーティがその晩開かれた。バンクーバー湾側に沈もうとしている夕陽を見て,日本はあっちの方だなと思いながら静かなピアノ演奏が流れる中に自由に研修体験を現地側ホストと語り合うのだった。
振り返ってみると、私の海外にでて見たいという希望は叶ったし、旅行では得られない貴重な体験ができた。そして今日まで社会人として自分は海外との接点が多かったがそのきっかけがこの研修にあったと思う。
現在はどうか?外資100%のある製造会社での研修生は、アイセック研修とは違うが、より企業側からのニーズをかなえる方法をとっている。
形式が人材アウトソーシング会社を通しており,人材の技量,経験,本人の希望等が明確に企業ニーズにあってれば契約に進むという実際のビジネスになっているわけで、それなりの成果を求められる。外資系での人材不足は顕著であり、まず海外にある本社機構で研修させ(日本語も含め)適性を評価し、海外拠点(日本)へ送り込む方法である。
この方法は、本当に実力があり、しかもタフな者に限定されるわけで、まず普通の学生では無理であり、当然受入れ側もアイセックの主旨に理解をし、しかも経済的余裕のある企業になってくる。最後に私の個人的考えを書いておきます。なぜ伊藤博文や福沢諭吉がその道を極めたのか。当時も同様の道を求め歩いた仲間が多くいたはずだ。進取の気性、対人影響力,理解,状況分析の総合力で輝いていたに違いない。1860年代も、1980年代も、2010年代も2050年代も変わらないだろうし、国や民族に関係なく流れるもので、志の大小でそれぞれの結果になるのだろう。
アイセックへの感謝とさらなる活躍を期待し筆を置きます。
2005年7月19日
1979年カナダ企業研修生
布施 孝(慶応経済学部1980卒)