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投稿エッセイ / Memorial Essay

 このページでは、OBAIESECメンバーの皆様に「アイセックとの関わりや思い出」を投稿していただいたものを随時掲載していく予定です。2012年に迎えるAIESEC-Japan設立50周年の時に記念集を発刊する際の原稿に出来れば...と思っています。 



青春の思い出

一橋LC1964年卒の安井隆豊氏が名古屋和合ロータリークラブの会長をされていた03年から04年の間、毎週の例会での会長挨拶をされていたそうで、それをまとめた小冊子が送られてきました。その中でアイセックに関連する6つのエッセイをご紹介します。

青春の碑「ケネディ大統領と私」

私が初めてアメリカ合衆国に渡ったのは、昭和38年3月、大学3年生でアイセックという学生組織への加盟申請をするためであった。

プリンストン大学で国際会議終了後、ホワイトハウスでケネディ大統領に会える機会があるとの事で、私は大変楽しみにしていた。

当日は曇であった。ホワイトハウスの中は雑誌や映画で見る様な白い建物があり、広い芝生には小鳥やリスも遊んでいた。その中庭に世界各国から国際会議に参加をした約500人余りの男女の学生が集まり、雑談をしながらも何かを期待していた.時々薄日が差した。

一瞬ざわめきが起こり、それが拍手に変わった。建物の扉が開き、前にある演壇にケネディ大統領が登壇をしたのを見てその方に集まった。大統領は静かに、力強く、スピーチを始めた。私は夢の中の映画のコマが、カチャカチャと進んでゆく様な気がした。

15分程で話は終わった。一斉に盛大な拍手が学生達からわき起こった。大統領は我々の中に割って入って来た。そして学生達と握手を始めた。私は運良く前の方に居たので、気がつくとケネディ大統領が前に立っていた。私は夢中で右手を出した。大統領の手は厚く、そして温かかった。それはほんの一瞬の出来事であった。大統領は手を振りながら執務室の方に去った。大変感動的な出来事だった。

その年の秋、私は東京三田の近くのお寺で合宿をやっていた。夜中迄議論をして寝た。朝起きて初めての宇宙衛星放送を思い出し、近くの飯屋へ出かけた。TVの前には多くの人々が米国よりの衛星放送の第一報が入るのを待っていた。TVは表情の硬いアナウンサーが出て来て第一声を出した。

「私は記念すべき宇宙衛星放送の第一報で、この様な悲しいニュースをお伝えしなければならないのは残念でなりません。アメリカ合衆国のケネディ大統領が暗殺されました。…」

我々はエッと言ったまま後の言葉が出て来なかった。私はこの偉大なる大統領に憧れと尊敬の気持ちを持っていたし、又特別な感情が入っていた。私は右手を握りしめると大統領の厚い手の温味が蘇り、目が熱くなり、胸がぐっとこみ上げ、悲しみが湧き起こって来た。

宇宙中継では、ダラスでケネディ大統領が凶弾に倒れたことをくり返して報道していた。私はそっと涙をふき、うつろになっていた。

その後私はダラスへ行く機会を得た。ケネディ大統領の暗殺現場に行ってみた。オープンカーが公園を曲がり直線に入って来た時、あのビルの上から大統領は射たれた。

私は40年も前のことが思い出されて熱い気持ちになった。

ダイヤモンド社石山四郎氏の思い出

アイセックジャパンの創設者、独人学生トーマスは、タイムライフ社の研修生として提携先のダイヤモンド社に来日し、机と電話を借りて活動の拠点としていた。

私はトーマスの資料からダイヤモンド社に石山四郎さんの存在を知り、訪問をして研修生受入先の企業の紹介を受けた。服部セイコーの服部さん、大和証券の千野さん他名だたる人達を紹介してもらい、渉外の度に電話なり訪問して報告をして、次の助言をもらった。

その間に度々訪問をする中で、時間の都合で御自宅のマンションに行き、奥様にケーキ迄出して頂ける様な歓迎を受ける迄になった。四郎さんは当時まだ40才前で、ダイヤモンド社の第一線で大変忙しくしておられたが、私のアポイントはその忙しい時間を削いて、相談に乗って頂いた。

アイセックも研修生を引き受けてくれる企業もいくつかになり、顧問会議、理事会も出来た。そんな頃、プリンストン世界会議で、日本として加盟申請をしようということになったが、賛助会費が集まる目度がついたのは委員長の岡本さん1人分の旅費であった。私は何としてもプリンストン会議に参加したいと思い石山四郎さんを訪問した。四郎さんは暫く考えた末、方法はないことはないがと言ってパンアメリカン航空の荒井さんのところへの紹介状を書いて頂き、私は早速訪問した。

その紹介状にはパンアメリカンのエアカーゴの就航の広告を週刊ダイヤモンドに載せ、その替わりにNYへのPAの航空チケットを発行するという案があった。荒井さんも、内容を見てこの様なパブリシティは度々あると説明してくれた。しかし、接渉をする間に、PAのエアカーゴの就航がコングレス前には間に合わないことが分かり、私は親から旅費を借りてコングレスに参加した。

プリンストンコングレスも加盟を実現し、研修生の交換も16件成約し、私達は元気で帰国した。そして即に石山四郎さんのところへ訪問し、全部を報告した。大変四郎さんは喜んで頂いて、我々も感動した。そして、例の旅費の話を続いて実行をして頂いた。つまりPAのエアカーゴの就航が決まり、週刊ダイヤモンドに全頁見開きで2回連続載ることになっていた。そして、掲載された後で私は四郎さんの指示通り、トンプソン社に訪問し、72万円の小切手を受取り、大変感動した。

その後、私は結婚式の仲人は海外出張と重なり実現しなかったが、ソニー入社の保証人になって頂いて大変嬉しく思った。

JCの講師で来名の時お会いし、又、ジェフサの講師を御願いし多少の恩返しになったのかなとも思った。

四郎さんの偲ぶ会は大変質素な中にも四郎さんの人柄のあふれた会で、済んだ後にお宅に訪問し、奥様ともお話をさせて頂き四郎さんを偲んだ。

アイセックを作った男・岡本良毅さんの話

岡本良毅さんが私の下宿にやって来たのは、私が一橋大学の3年生になったばかりの春だった。彼は私と同じ国際貿易理論の吉野先生の13人のゼミテンの1人であった。

彼は一橋で前期2年を終了し、その後米国の大学に3年留学し、学部に再入学したばかりで我々より4才上のいわばオジサンだった。彼は私に言った。

「国際インターンシップのアイセックという団体の日本支部設立に手を貸してくれないか」実は私もその説明会に1ヶ月程前に参加をしていた。海外の一流企業で夏休みに企業研修をさせてもらって、しかも、初任給程の給料までもらえるというおいしい話である。

私は眉唾と思い、その後その話には乗らなかった。その話をしに来たのはアイセック国際元事務総長を任めた独人のトーマスという男である。岡本さんはトーマスに英語力と米国留学経験を買われて、後任として指名をし、彼は帰国した。
私は丁度つき合っていた彼女に振られた時であったので彼に協力することにした。

我々は毎晩夜を徹して話をした。彼はいつも「石積み」の話し方をした。だから私にとって巨大なピラミッドの一枚の石の話をされても何の意味かさっぱり分らず、彼とは火星人と話をしている様な気がした。彼曰く、「安井君は演繹的な思考方法だね。よくそんなに早く結論が出せるね。僕の方は帰納的なので分かり難いかも知れないが…」

私は自分でどんな思考方法かも知らず、「エイヤッ」と結論を出し、行動するのが得意であった。岡本さんと私とは毎晩話し込み、お互いににアイセックについて何を考えているのか分かる程に理解が深まった。

岡本さんと翌年に米国プリンストン大学での世界会議に参加した。岡本さんの活躍は素晴らしかった。米国留学経験と大人の考え方が熟成しており、語学力・交渉力共に冴えた。ただ時々彼のペシミズムが出かかると、私は大いに彼を励ました。3人の日本代表団の成果は大成功であったと言える。アイセックの国際組織に準加盟し、又研修前の交換もした。

岡本さんは大学を卒業して、伊ト忠に入り、オーストラリアで油の仕事に携わった。

外国の仕事から国内に戻り、又、アイセックOB会の手伝いをやりかけた。まずOB名簿の整理からとの事で、各大学に呼びかけ、熱中していた。なぜか彼はOBの連絡網にこだわった。遂にOB会名簿は完成した。

そんなある日私の所にそのOB会の名簿の連絡網を使って初めてのメッセージが届いた。それはなんと岡本さん自身の言卜報であった。前日に「疲れたから寝る。明日は会社を休んでゆっくりする」と言って床に入り、朝奥さんがちっとも起きて来ないので、見に行ったらもう冷たくなっていたとの事。私は早速かけつけ、弔辞を読むことになった。

岡本良毅さんの冥福を改めて祈る次第である。

駐オマーン特命全権大使萩次郎君

中東のアラビア半島の南東部に、オマーンという国がある。アラブ首長国連邦と隣接し、アラビアンナイトに語られた船乗りシンドバットはその国の港から出港したとされている。

近代国家としての道を歩きながらも官僚は民族衣装着用が義務となってる国でもある。オマーン国特命全権大使の名は萩次郎と言う。
名古屋出身で防衛庁に入庁し、1998年に防衛施設庁長官を退任して後、同大使となった。

萩君がまだ防衛庁に居た数年前の頃、私は何人もの人達から日本経済新聞で私の名前を見たとの話を頂いた。調べてみると「交遊抄」のコラムに萩君が私の名前を載せていた。

大学時代、萩君と私は海外インターンシップ・アイセックの設立に全力を尽していた。
米国のプリンストン大学で世界会議があり、私は二代目の日本委員会委員長の岡本良毅さんと会議に出席した。加盟申請と企業研修生のフォームの交換を無事終えて、その後私はプライベートで米国を20日間旅行し、岡本さんは先に帰った。私が米国より帰国した時、次期の委員長は東大の萩君で決まりそうな雰囲気であった。当時参加大学は4大学で、初代は慶応、岡本さんは一橋、今度は東大の萩君の番だとの雰囲気であった。

私はなんとなく納得できない胸のつかえがあった。私は委員長になりたくて世界会議に行った訳ではないが、同じ大学から2人続くとの理由だけで目分か最初からはすされることに対して納得出来ないものがあった。私は萩君とも仲も良かったし彼が選ばれてもいいとは思ったが、自分が世界会議で経験したことを無駄にするには耐えられないものがあった。

私は順送りではなく、公開投票をする様呼びかけ、その案には皆が賛成した。規約によると委員長の選出は一大学5名20票で、2/3の13票の支持が必要とあった。萩君と私は4大学で立合演説会をやって支持を訴えた。私は一橋と慶応が支援をしてくれることになった。早稲田は意見が分れた。
いよいよ投票日となり、お互いに最後の所信表明を行い投票した。結果は私が12票、萩君が8票となった。私が当選するには1票不足しており、再投票となった。もう一度所信を簡単に述べ投票となった。その結果私は13票で萩君は7票、ぎりぎりで私は第3代のアイセック委員長になった。私は萩君に副委員長を依頼し、彼も快く引受けてくれた。

その後私は再投票の際誰が彼から私の方に投票を変更したのか不思議でならなかった。調べた範囲では誰もが一回目と二回目は同じ人に投票していたようだった。

しばらくは私もそのことは忘れていた。ある時ふとその事を思い出しハタと気づいた。「最後の一票は萩君自身だ」と思った。
その事で改めて萩君との友情も深まり、今でもその友情は大切にしている。

日本・中国学生交流の架橋

東京大学の学生・岡田崇君と出合ったのは1996年のことだった。当時米国や独等の学生が中国に国際研修学生交換の団体アイセックを作ろうとしてそれぞれの手法で中国に接近しており、日本もその流れの中でチャイナプログラムという組織を作り岡田君がそのトップであった。しかし、彼等の話を聞くに従って私は大変不安な気持になった。一例を言えば、ベルリンの壁の崩壊で共産主義は崩壊したとの間違った認識で、中国は共産主義で発展しているとの考え方を中国が持っている等あまり考えていない程度無知に近かった。

私は運良く、中国の友人劉鉄鋒・氏が国家外国専家局の下部組織で日本に駐在員として来たので、岡田君達を彼に紹介し、何度も政府との交渉に道を開くべく相談に乗ってもらった。そして私はアイセックジャパンの設立当時の事を思い出し、中国と日本の学生の交流の意義を趣旨とし、長期5ヶ年交流計画を学生達と一緒に作り上げた。

私は岡田君を始め3人の学生と一緒に中国北京に行った。そして劉さんの所属する国家外国専家局のトップの人々と交渉を行った。
我々は「建議書」を作り、彼等に理解を求めた。内容としては
1.中国人学生を日本企業へ派遣する件
2.日本人学生を中国国内企業へ受入の件
3.組織を大学内に作り活動する件
4.財政
5.海外組織と連携する件
の了解と支援を得ることであった。

しかし、1と2はOK、3〜5は保留ということになった。その他では香港・台湾問題が問題となった。これは大変難しい問題であった。でも、ある意味ではこれは外交交渉と同じであり、経験した学生にとっては非常に貴重なものとなった。

その後、安井家具として毎年中国から2ヶ月間の研修学生を受け入れており、6年目となった。このところ対外経済貿易大学の学生が続けて来ており、この大学は国際貿易・金融方面への専門的な教育を行う、レベルの高い大学である。皆すごく頑張り屋が多く、日本語も、知的レベルも最高級の学生達である。熱心に研修を受け、日本と中国との文化習慣の違いから商売のやり方の違い、そしてサービスの中味迄巾広く理解しようと努力しているのを見るにつけ、将来楽しみなものである。彼達は中国を代表して、中国の現状をより正しく日本人に伝え、帰国してからは日本の現状を正しく伝えるのが役目と考えている。

中国が国際社会の中で調和をしてゆくには将来の中国を背負う若者、学生達が海外に出特に日本と中国とはもっと親密な信頼関係を作る必要がある。
新世代の若者達に日中間の交流を大いに期待したいものと思われる。

板垣與一・一橋大学名誉教授を偲ぶ

板垣先生がお亡くなりになった。満94才での大往生である。通夜は信濃町の千日谷会堂で行われた。葬儀委員長の小島清一橋大学名誉教授を始め、国際経済学界の人々、大学関係者、教え子、そしてアイセック関係者等々と、夕闇の中、多数、長蛇のお弔いの列が出来た。そして、大変感動的な中にも通夜が行われ、先生の人徳と交遊関係の広さが偲ばれた。

先生は6月に奥様の7回忌のお勤めを1人で取り仕切り、その後種々の会合等で、お忙しくされた後体調を崩され、膵臓ガンが肝臓に転移するという重病であることが判明しました。先生は早く、特急で行ってしまいたいと訴えられた様だが、しかし元々お丈夫な方で意識もハッキリされており「安楽死をしたい」と色々訴えられるので、病院と相談の上、睡眠状態で死を迎えられる様な手当を施されていらっしゃいました。

昨年のアイセックー橋の40周年の式典で、板垣先生は素晴らしい感動的な講演をされた。要旨は次の如くである。
「対話による異文化理解へ!」
アイセックの理想は海外研修による人物交流により実務の研修と共に国際理解を深め、平和の実現に貢献し得る人物を養成することである。国際理解は異文化理解とも言え、その方法は「対話」によってイメージの相互交換(ケネス・ボールディング)をすることにより、文化の相違点と共通点を正しく認識し、理解し、お互いの気持がわだかまりなく自然に通じあうようになり、虚心坦懐な話し合いの中で異文化理解が可能となる。
対話は対決ではなく、話し合いの中での歩みよりの精神で、この様な忍耐強い対話の努力を積み重ねることによって始めて、異文化理解を内実とする国際理解が進み、またそれに基づく国際協力も円滑に進展し、世界平和への道が拓けてくるわけです。
板垣先生に対しては学生時代の思い出としてアイセックにどの様に支援するかと、大学の教授達と経済4団体の会合を持った時に、経団連の花村仁八郎氏は「大学の先生達で学生の責任の所在を明らかにする為に『理事会』を作ってくれれば経済団体は顧問となって支援してもよい」との意見が出た時、板垣先生のリードで、素早く『理事会』を作り、経済団体に『顧問会議』を設立して頂き、その素早い対応と適格な処置は、大変感銘を受けた。

又、昨年のアイセックの40周年の時の話ですが、93才の先生の最近の私生活は、11時頃迄TVでスポーツを見、その後夜明け迄読書をされ、お昼頃起きられるとの事でした。そして最近では源氏物語が面白く、諸々な学者の解説を読み比べていると面白く、つい朝になってしまうとおっしゃっていました。

先生の思い出は尽きないし、又、我々も多くのことを先生から学んだ。改めて板垣與一先生のご冥福をお祈り致します。




AIESECとは?
「率先垂範、真剣本気、成功目標、優秀にして創意に富むアイセッカー同志の永続する友情」

A Abiding (friendship) 永続する(友情)
I Initiative 率先
E Earnest 真剣
S Successful 成功
E Excellent 優秀
C Creative 創造的


アイセック・ジャパン40周年に寄せて
「対話による異文化理解へ」
故板垣與一先生
(アイセック日本委員会初代理事、一橋大学名誉教授)

アイセック・ジャパン一橋大学委員会が、ここに40周年記念式典を迎えるにあたり、創立時にかかわった者の一人として、まずおめでとうと心から祝意を表します。
この機会に、何か一言を、ということで壇上に立ったわけですが、何よりもまず、これまでの40年の貴重な経験をふまえて、アイセッカーは今後、如何なる抱負と心構えを持って前進すべきか。それについて日頃の私の考えの一端を申し上げたいと思います。
いうまでもなく、アイセックは大学で経済学、商学を学ぶ若い青年男女の海外研修による人物交流がその実体ですが、その理想とするところは、実務の研修と共に、国際理解を深め、国際協力を深めることによって、世界平和の実現に貢献し得る人物を養成することにあると思います。国際理解による世界平和への道、これです。
ところで、この国際理解というキーワードは、金子正人初代会長さんがかねてから強調されているように、「異文化理解」にほかなりません。したがって、アイセックによる人物交流は、それぞれ異なった文化を身につけた人々の間の交流ですから、異文化を理解することが、最も大切だということになります。
「文化とは何か」というむずかしい論議には、ここでは深入りしませんが、一般に文化とは、その国または地域の人々の「生活様式」の全体を指しています。しかも生活様式それ自体は、言語、文化(狭義の)、教育、宗教、慣習、歴史、風土等、いろいろな要因が不可分の一体として結びついているので、異文化理解といっても口でいうほど容易なことではありません。それでは、どうしたら異文化を理解することが可能となるのか、それを可能にする方法は何か?この問いに対する答えは唯一つ、すなわち、異文化理解の方法は、「対話」によってのみ可能となるのであって、対話以外の方法、通路はないのです。
「対話」は文字通りAとBの二人が、向き合って互いに顔を見ながら話し合うということです。対話の形は「イメージの相互交換」(ケネス・ボールディング)です。対話でのやりとりのうちに、お互いが相手に対してもっているイメージにまつわる根拠のない先入観や偏見が、話し合いの中で次第に除去されてきて、お互いの本来あるべき真のイメージが浮かび上がってきます。そこで初めて、お互いがそれぞれ身につけている文化の相違点と共通点を、誤解することなく正しく認識し理解することが可能となるのです。その意味で、お互いの気持ちがわだかまりなく自然に通じ合うようになり、虚心坦懐な話し合いの中で、異文化理解が可能となるのです。
対話は「対決」ではなく話し合いの中での歩み寄りの精神です。このような忍耐強い対話の努力を積み重ねることによって初めて、異文化理解を内実とする国際理解が進み、またどれに基づく国際協力も円滑に進展し、世界平和への道が拓けてくるわけです。
以上述べた意味で、21世紀に向けてのアイセッカーの使命として、これまで以上に、国際理解、国際協力の担い手たるべき抱負と心構えを持って、勇往邁進されんことを切に希望しかつ期待して、私の一言といたします。

2002年10月25日


『小さな芽、広がる世界』
大原康之(早稲田LC1966)


"ハロー、こんにちは。" 今年もアイセック(AIESEC)の学生が我社に、海外企業研修のために来社した。今回は、韓国の梨花女子大学で英語英文学や政治経済学などを巾広く専攻し、英語と日本語の堪能な4年生のペクさんだ。 出社すると海外担当室の者が挨拶に案内してくれる。そこで、我社での研修目的(マーケティング・貿易・生産・IT・人事など)を確認し、2〜3ケ月の研修期間中に最大の成果が上げられる様に、,しっかりカリキュラムを組み、研修に入るのである。早い段階で社長インタビューが組まれているので、我社の歴史、経営理念、会社の概況などを直接話すことにしている。英会話が我社での受け入れ条件の一つであるが、今年の研修生のペクさんは、今までの受け入れ学生の中で一番日本語が堪能であったので、日本語で説明することが出来た。

さて、アイセックは、1948年にヨーロッパで設立され、海外研修交換事業やセミナーの運営を通して、これからの世界を切り拓いていく若きリーダーの育成を目指している世界最大の学生組織で、現在90ヶ国850大学に委員会を持ち、約18,000名の学生が運営に携わっている。毎年世界で3,500人以上の海外インターンシップを交換し、,350以上の国際会議を各国で運営している。

我国では、1962年アイセック・ジャパンが首都圏の東京・早稲田・一橋・慶応の4大学の学生により、経団連をはじめとする経済団体や教授陣の支援を得て設立されたのが始まりである。現在は国内24大学約1,000名の学生が活動を行いNPO法人組織となっている。私も設立されたばかりのAIESECの主旨に賛同し、黎明期のアイセック活動に情熱を燃やした者の一人である。学生時代は研修生を受け入れて頂ける可能性のある会社の訪問や賛助金を集めるために丸の内界隈の大企業を訪問!した事を、昨日のように思い出す事ができる。

さて、立場が変わって、,今は研修生を受け入れる側としてお手伝いして既に15年程になる。我社を担当してくれているのは、アイセック南山大学委員会の学生で、既にスイス・ドイツ・フィンランド・米国・カナダ・中国・タイ・マレーシアなどから毎年1名ずつ世話をしてくれてきた。渡航費用は全て研修生の自己負担であるので、短期間で成果を上げる意欲が感じられ、取り組みも積極的で真剣そのものであった。

こうした海外インターンシップに期待していることの一つには、研修生にインターンシップの成果を上げさせる事の他に、我社の若い同世代の社員がグローバル化時代を迎えて、多くの海外からの若者と接し、異文化交流や相互理解に役立ててくれれば良いと思っている。そして、研修生にとっても、我国の文化・習慣を学ぶ絶好の機会にして欲しいと考えている。海外旅行に安価で遊学出来る昨今、あえて海外の企業に労苦を惜しんで勉強したいと願う学生達に、少しでもそうした機会を提供し応援し続けることに喜びを感ずる次第である。
過去に我社で研修したマレーシアの学生がトヨタ自動車のシンガポールに勤めているが、この程結婚して新婚旅行の途中に来社し、新郎を紹介してくれた。又、タイのチュラロンコン大学の学生からも再び来日し京都大学で博士号をとりに来たというメールが届いた。日本語の上手なドイツの学生も日本へ戻って就職したいと便りが届いた。チェコの学生は母国で日本企業に就職したとの便りもあった。
この様に短期間の研修ではあったが、それぞれ帰国し,各方面で活躍してくれていると思うと感慨深いものがある。これからも、地道ではあるが少しでも海外の若い人達に研修の場を提供して、草の根文化交流にいささかでも役立てればと思っている。

今年はもう一人研修生が来社することになった。それは、ベトナムでアイセックの設立準備が整いつつあり、初めて日本に研修生を送ってくることになったからだ。当社がベトナムで工場を設立していることが縁で依頼があったからである。又,楽しみが増えた。

(株式会社槌屋社長:「月間自動車部品」2005年6月号より)


『研修時代の友人と家族ぐるみの付き合い』
沢目大介(慶應LC1993)

1992年3月から93年3月まで、アメリカのポートランドでAIESECの研修を受けました。そのとき、一軒家に住んでいたのですが、他にもアイセックのルームメートが3人いました。

そのうちの一人、Daveとは研修後も連絡を取り合いつづけました。彼が日本に滞在するようになってから(98年から)は、頻繁に会うようになり遊びにも行きました。

2年前の5月にはDaveの結婚式、7月には私の結婚式にお互い招待し合いました。
彼の奥さん(日本人)と私の妻も仲良くなり、何かあるときは4人で食事などしていました。

去年の5月に娘が生まれ、今年の5月にDaveのお嬢さんが誕生しました。
これからは、妻と娘を含めた家族ぐるみの付き合いが始まります。

また、ポートランド滞在中にカナダのバンクーバーへ旅行しましたが、そのときに泊めてくれたのがAIESEC UBC(University of British Columbia)のLCP、John Lienさんでした。彼はいま東京で働いていますが、昨年の結婚式に家族(妻と娘も)を招待してくれました。
現在、奥さんは妊娠中ですが、お子さんが生まれたら、Daveの家族と同様に、家族ぐるみの付き合いをしたいと思います。

研修が終わってから11年経ちましたが、学生時代の付き合いから家族ぐるみの付き合いができるのは幸せです。


『AIESECカナダ研修レポート(思い出)』
布施 孝(慶應)


26年もたってレポートを書くのはもう記憶が薄れているし、どこまでが本当のことやらあやふやな部分がありますが、思い出を書き綴るつもりで纏めてみました。勿論、正式なレポートは、研修終了時に研修先に提出してあります。

1979年6月末、成田からDC8に乗りJFK空港乗り換えでトロント向かった。空港でAIESECの学生に拾ってもらい、50キロ南のHamilton市にあるMcMaster大学の学生寮に寄宿し、研修生活が始まるのだった。夏休み中であることと日中は会社にいたので学生はほとんど見かけず、一面広い地方都市の中で、日本人は私と、数日遅れてきた原子炉研究者2名と、街の郵便局勤務のおじさんだけだった。
夜は9時までは陽が落ちないので時間をもて余してしまい、今思い出すと夕食を大学病院のカフェテリアで摂ったことだけは覚えているが、朝食はどうしたのか思い出せない。
初出社日を迎えた。街の高層ビルに研修先はあった。Steel Company of Canada (彼等は
ステルコと自称する)の本社であった。実はAIESEC側の確認ミスで前日が出社日であったことがわかりスタートに躓いてしまった。ともかく受入先窓口の方々と挨拶を交わし、これより一人研修の道に入った。
車で20分のところにステルコ工場があった。全従業員2万人の会社であり、粗鋼生産高は世界で17位の鉄鋼会社である。私の実家が川崎製鉄千葉工場の近くにあったことから溶鉱炉からあがる煙に同じ公害問題がここでもおきているに違いないと感じたが、研修期間を通して環境問題を聞くようなことは無かった。
先ずは労務部長、副工場長に挨拶、そして勤労部の労働協約関係担当が私を待っていた。今では名前も思い出せないが(仮にブルースにさせてもらう)彼は20台後半、おしゃれで物静かなタイプである。いきなり労働協約ハンドブックを渡され、内容の見直しをしているんだと言う。私が初めて見たことを伝えると協約条項の構成を説明してくれた後は、私は辞書を片手に読解に取り掛かった。ブルースのところを拠点とし人事採用企画課、福利厚生課を回るのが私の研修コースであった。

会社勤めをしてきた今,1ヶ月で何ができるかを考えると、放りっぱなしにされずよく面倒みてくれたなと感じる。
ブルースは私が面白味の無い労使協約に取り組むことの大変さをわかってくれて2日目は工場見学させてくれた。また3日目は仲裁関係の手続きがあるからとオタワまで連れて行ってくれた。都市の密集度ではトロントにかなわない。研修期間にホワイトカラーの人々が忙しく通路を走る姿や4時半以降残業する姿も見ることなくゆったりとしていた。
4時半のベルがなると、ジム(勤労部の年配者)が車で寄宿先まで送ってくれるので非常に助かる。彼は陽が長いので自宅に帰るとガーデニングを楽しむという。
私は自分がどうやってコインランドリーで洗濯を覚えたのか忘れたが帰ると洗濯、モダンなカフェテリアとやさしいおばさん達に挨拶し一人夕食をとること、部屋か図書館でその日のレポート作成がアフター5の日課であった。

出発前に東京銀行でトラベラーズチェックを用意したが、寄宿舎に近い信用金庫に換金にいったら、東京銀行が知られていないのか手続きに30分はかかった。まだ日本は知られていない。当時彼等に一番知られていたのがMade-in-Japanバイクであり、工場にもバイク通勤が多く8割は日本製だった。
朝はリスをしばしば見かけながら緑豊かなキャンパスの近くでバスに乗り1回乗り換えで片道40分のラッシュアワーのない通勤であり仕事道具の入った緑の唐草模様のついた風呂敷をかかえ出社していた。

土曜日曜はどうすごしたか? AIESECに色々なところに連れていってもらい、これから書き上げて行くが、オペラ鑑賞、トロント島とナイアガラ観光、ブルージェイズ対ターガース観戦、マスコカのキャンプ、最後がバンクーバー、とにかく一人でいる傾向のある私にとってハプニングと出会いが続いた。
また研修に戻る。2週目は、人事企画採用部門であり美人女性マネージャ率いるグループでの勉強であった。名前は忘れたのでキャシーさんにさせてもらうが、数年前にご主人の仕事の関係(小松―キャタピラ)で東京に行ったそうだ。キャシーさんのグループに男性が3名いたが、彼等は新入社員か、中途採用をとるかを検討していた。それまでは大方が中途採用であったようだ。そしてその中途採用面談に立ち会った。志願者は彼の履歴書や資格卒業証書等を見せながら自身をアピールする。採用側と志願側とがほぼ対等に話されていたのは中途採用の特徴なのだろう。

第2週目の半ばに、アイセックのジュディさん(仮称)がOpera鑑賞に連れていってくれた。トロント辺りはその昔モハーク族インディアンの居住地であったらしく、今では文化村として生まれ変わっているが、そのホールはギリシャの演劇場のような半円形に客席が配置されていて洒落た明るい雰囲気があった。「セビリアの理髪師」が上演されるのだが内容は知らないので早いうちから眠気が出てしまった。ジュディさんは途中、私に帰ろうかと聞くが、見続けたいと伝え、実際終わりまでいた。華やかな舞台は楽しかった。文化の高い静かな夏の夜であった。また週末はメジャーリーグ観戦に、ボブと彼の父親が誘ってくれた。まだToronto Bluejaysが楽天のように弱いころで熱狂的ファンが見られず、負けてくると途中で引き上げるような観戦者が多かった頃である。後で知ったのだがカナダ国技はアイスホッケーで夏場もホッケーを楽しむ人々を見た。

研修も雰囲気に慣れてきた第3週目になり、副工場長のWilliamsさんが職場の部下を連れてレストランに連れていってくれた。総勢15人ぐらいだった。昼食でもビールを飲むのにもどって仕事ができるのかなと思ったが,仲間も薦めてくれるのでみんなと同じビールを飲み新鮮な野菜サラダやエビのサンドイッチを味わった。職場に帰ってきて何か雰囲気が違うのを言葉がわからないながらも感じ取った。どうも私に関係してることは検討ついたが行きと戻りのこの大きなギャップがなぜかは理解できなかった。職場の仲間は誰も話しかけてくれないので、一番親しいテリー・ウォルシュさんに尋ねた。
テリーはついに言ってくれた。「酒気帯び状態で工場内(職場)に入ることは許されない。君にビールを薦めたラリーは3日間の出社禁止処分を受けたんだ。」と。私は自分の不注意で、ラリーに申し訳ないことをしてしまったと悔やむと同時にWilliamsさんに自身の不注意の反省とラリーへの処分撤回願いを書ける限りの英単語を使って手紙にし、テリーさんにWilliamsさんに渡して欲しいとお願いした。しかし、この私の手紙に対するWilliamsさんからの反応はなかった。私はこの時から非常に落ち込んでしまった。

数日後、私の研修場が労務課に移った。ケビンさんが私のところへ来てちょっと歩かないかということで工場を一回りする間に、彼自身について色々語ってくれた。彼は、ステルコに入社する前は、カソリックの牧師であった。結婚が理由で牧師を止めねばならなかったが労務課での自分の仕事は社員の葬儀があればそこに参列し家族を励ますこともできるので牧師として仕えた時と変わりはないんだと話す。笑顔で話す彼をを見ているうちに不思議だが私の気持ちも軽くなっていった。彼のもとでの研修で思い出深いのは、退職予定者との事務手続きに関する確認面談であった。
ジョンは50歳そこそこで定年に達していないが早期退職しこれから悠々自適の人生を送るんだと元気の良い男で、ステルコに入社した時は今役員になっている誰某と一緒に働いて、その時の思い出話を楽しそうにケビンさんと話す。現場の男たちと合って私の気持ちは和らいでいった。
またトミーさんの場合は、設計技師であったが、脳溢血で倒れ、半身不随になってから20年間軽い事務職として働き続けた。定年を迎え年金の手続きで奥さんに付き添われてケビンさんのところに来た。奥さんはイングリッドバーグマンぐらいしか名前は知らないが、彼女に似たとっても美しい方だった。挨拶を交わすやいなやケビンさんから私にこの二人にCoffeeを入れてくれないかと頼まれ、喜んで給仕した。
まずトミーさんは、国民年金と、企業年金、個人年金の3種類の年金を受けられる。この中で個人年金の選択についての確認点は、彼の生存中の受給額を最大化するか、彼の生存中をそこそこにして残された家族(妻)がその天寿を全うするまで受給するか、または中間を選択するのかを確認する点にあった。
ケビンさんは相手が解かるまでゆっくりと具体的に数字を使いながら説明していた。トミーさんは口を開き、自分は今の暮らしで満足であり、自分の死後も奥さんが困らないような選択をしたいと言った。奥さんの長年の支えや、それに答えるトミーさんの姿、またケビンさんの熱意こもる説明にそれまで私が知らない堅実に生きる人々を見た。こうしたことは本や学校では教えられないリアルな体験のすごいところである。奥さんの喜びは、口にはしないが目の奥に表れていたし、部屋を出る時の握手の力強さで伝わってきた。二人が帰った後、ケビンさんにこの年金でどのような生活ができるのかを聞くと、普通夢に描くのは、晩年は暖かいフロリダで過ごすのが一般の人々の場合だが、トミー夫妻はそこまでは難しいだろうが、そう悪くはないよと答えてくれ、私は嬉しかった。

土曜日はアイセック学生がトロント島とナイヤガラの滝観光へ連れていってくれた。トロント、ハミルトン地域で研修を受けている海外学生は4人いたと思う。私はユーゴからきたコマネチのような女子大生マリアと話をして国情,文化,慣習が異なっても、結構感じ方が共通していて不思議であった。オンタリオ湖に浮かぶトロント島も季節の花々が咲き乱れいかにもカナダらしい。ナイヤガラも雄大であった。

トロント地区のアイセックは、誰がリーダーかわからないで,だらだら気味であったが不平不満がでない変な集合体であった。たとえばトロント島では昼食もとらず草の上にぐたっと横たわり休むだけで、私を空港でピックアップしてくれたロバータとポールのカップルだけがバスケットを開きサンドウィッチを食べるといった不調和な場面があった。みんなはポンコツ中古車に乗り、自活で勉強してるらしい。そんな彼等彼女達と次の週末にトロントの北100キロぐらいところにマスコカと呼ばれる湖沼地域があり、そこにキャンプに出かけることになった。キャンプ場について薪をすぐ配られたので恐らく金曜日の夕方出発したのだろう。陽が沈んだ森は東山魁夷の描いたような世界でやはり日本でみてる森とは違った。みんなは燃える薪の周りに集まり話をしていた。夏場とはいえ、内陸のカナダはとても冷え込みそして、テントで寝るのは初めてでもあり、大地の冷たさと硬さに耐えられずとうとう眠ることができなかった。翌朝は友達になったスコットと湖にゆきカヌーを漕いだ。時々ビーバーを見かける以外は鳥のさえずりしかなくまさに大自然の中にいた。
仲間達はアメリカンフットボールをやろうを誘ってくれたが、ルールも知らないので加わらず一人で辺りを散策した。キャンピングカーでくる家族連れも多く見受けられた。マスコカは蝋燭の生産地で有名らしく、私も蝋にカエデの葉が含まれた蝋燭を思い出に買った。

第4週目の研修の最初は、その年ステルコに入社した新入社員(40名程)と新エリー湖工場見学であった。どこでも新入社員は元気がいい。バスの中は修学旅行のようだ。全員男だけ、威勢のいい鉄屋さん達だ。エリー湖工場はまだ完成したばかりで稼動はしていなかった。湖に面した牧場の中に環境と調和した最新鋭の工場である。赤茶けた建物でなく、煙も吐かない工場は長いベルトコンベアで岸辺から原材料を運べるようになっておりトラックは必要としない。同行した人事部の方に話をきくと、オンタリオ工場の従業員のいくらかはエリー湖新工場に転勤することになっているとのことで、若者なら転勤を希望するに違いないと思った。なにしろ牧場と製鉄工場という組み合わせがとても新鮮であった。またそこには風と共に去りぬのような立派なゲストハウスが立てられており工場は自然の中に溶け込んでいた。

最後の週は,特に新しい職場への移動はなくこれまで学んだことをレポートに整理していたと思う。その週の半ばに、Williamsさんの一声で、管理部門の男達は、定時後にアメリカンフットボールをすることになった。私はWilliamsさんは、ケビンさんのところでの研修とか気遣いしてくれているのを感じた。Williamsさんはアメリカの大学をでて何年も経たずに若くして副工場長であったのでもし今でもいれば役員になっているかもしれない。
日本の鉄鋼会社ではお抱えのラグビー選手をもっているが、こちらはレクリエーションで楽しんでいる。フットボールが終わるとWilliamsさんの家にみんなでいった。小高い丘の上にあり、ハミルトン市外とオンタリオ湖を見渡す眺望と25mプール付の部屋数がわからないほど多い豪邸であった。スキーが趣味のようで20セット程持ってるようだ。何名かはもう慣れていてプールで泳ぐ準備もしてきていた。一汗かいた後は、Williamsさんのお父さんが焼き上げてくれるピーチパイを食べる。Williamsさんは独身のようだ。彼は会社にいる時よりは口が軽くなるが、やはり物静かなタイプである。反対にお父さんは社交的である。だから職場の仲間もこうやって来るのだろう。まもなくステルコを去る私は、心のしこりを残したくなく精一杯の社交家になった。それはピーチパイを沢山食べることであった。また飲み物に、今度はジュースを選んだら、みんなが笑った。Williams父子、職場の仲間との楽しいひと時であった。

最終日に人事部長にそれまで纏めたレポートを提出した。この鉄の町で過ごした1ヶ月間、悩み、感動、笑いがあった私の研修はこれで完了である。(追記、私は一週間単位で給料をもらい旅費,生活費にあてがっていた。)翌朝空港まで到着時と同じくロバータとポールのカップルが見送ってくれた。26年前の姿はまだ覚えている。エアカナダのジェット機からオンタリオ湖、農場、森林、山脈をぼんやり見下ろしていた。さてこれから舞台は,西海岸に移っていく。

ここで、なぜこの研修に参加したのかについてふれておきたい。大学の同窓である水田氏が、彼の所属するアイセックで、日加通商協定が結ばれて50周年目のこの年に日加アイセックが交換研修生を受入れ、互いの国をより深く理解して貰うことを主旨として幅広く募集しているとのことであった。英語をすこし勉強していたことと、一度は海外にでてみたいとの思いから、早速応募したところ、筆記試験、面談ともパスしてしまった。大学で労働経済を勉強していたことも、ステルコのニーズにあったのかもしれない。ただあまりにもカナダについて無知であったので、政治学科のカナダに関する講義を聴講したものの関心がわいてこなかった。

ともかく、バンクーバーに着いた。土日を移動につかい自由時間であり、YMCAに宿をとり市内散策にでてみた。バンクーバーは暑かった。そして人も多く、とくに日系人をよく見かけた。(バンクーバーはサンフランシスコに次ぐ日系移民先である。)
散策するなか、方向がわからなくなっていたので通りすがりの日系人に道を教えてもらったところ、先方からもめずらしかったのかこちらに来た目的を尋ねられ答えているうちに打ち解けて食事でもしましょうということになった。中華レストランがあった。久しぶりのアジア食であった。その方は、戦争中は三菱重工系の会社で、ゼロ戦を製作していたエンジニアである。詳しくは、語らなかったが、日本がいやになって1960年代始めの第一期カナダ移民として渡って来たのだという。カラテキッドにでてきたオジイサンのように精神的には日本的なものを持ちつづけ,今はカナダの会社に勤務して悠々自適の暮らしを送っている。ただやはり望郷の思いは断ちがたいということが伝わってきた。
翌日は、今回の研修生の集合場所であるUBC(ブリティッシュコロンビア大学)に行った。大きな橋をわたるとゴルフ場があり、その先がUBCであり、McMaster大学とはその広さは比較にならない。学生寮も超高層建築でホテルといっても良い。実際、長期休暇期間は一般市民が利用できるようになっており、私が行った時は、身体障害者のリハビリテーションにその施設が利用されていた。
ここで初めてカナダ研修に参加された方々に会ったわけで、全員で十数名だったかと思う。互いの研修の感想を語り合う中、受入れ先が、細やかな対応をしてくれた例は、ほとんどなかったようだ。またそれは実際工数がかかるわけで、民間企業でそこまでの余裕は期待できないのが当たり前だ。
またほとんど4年生であり、就職活動も話題になっていた。アイセック受入れ側は2日間のプログラムを用意されていたと思うが、最初の日が座学、二日目にバンクーバー証券取引所訪問があった。私は証券に全く知識がなかったので説明を受けても質問もできなかった。その次は銅山跡地観光で1860年代がピークで既に廃坑になっている山の中に入った。その広大な面積からカナダは天然資源の宝庫で農林,水産,鉱業の第一次産業と観光が主要産業となっているが、自然対比として日本が加工組立産業中心に行かざるをえないのが良く解かった。そしてUBC内のゲストハウスでの歓迎パーティがその晩開かれた。バンクーバー湾側に沈もうとしている夕陽を見て,日本はあっちの方だなと思いながら静かなピアノ演奏が流れる中に自由に研修体験を現地側ホストと語り合うのだった。

振り返ってみると、私の海外にでて見たいという希望は叶ったし、旅行では得られない貴重な体験ができた。そして今日まで社会人として自分は海外との接点が多かったがそのきっかけがこの研修にあったと思う。
現在はどうか?外資100%のある製造会社での研修生は、アイセック研修とは違うが、より企業側からのニーズをかなえる方法をとっている。
形式が人材アウトソーシング会社を通しており,人材の技量,経験,本人の希望等が明確に企業ニーズにあってれば契約に進むという実際のビジネスになっているわけで、それなりの成果を求められる。外資系での人材不足は顕著であり、まず海外にある本社機構で研修させ(日本語も含め)適性を評価し、海外拠点(日本)へ送り込む方法である。
この方法は、本当に実力があり、しかもタフな者に限定されるわけで、まず普通の学生では無理であり、当然受入れ側もアイセックの主旨に理解をし、しかも経済的余裕のある企業になってくる。最後に私の個人的考えを書いておきます。なぜ伊藤博文や福沢諭吉がその道を極めたのか。当時も同様の道を求め歩いた仲間が多くいたはずだ。進取の気性、対人影響力,理解,状況分析の総合力で輝いていたに違いない。1860年代も、1980年代も、2010年代も2050年代も変わらないだろうし、国や民族に関係なく流れるもので、志の大小でそれぞれの結果になるのだろう。
アイセックへの感謝とさらなる活躍を期待し筆を置きます。

2005年7月19日

1979年カナダ企業研修生
布施 孝(慶応経済学部1980卒)